法然寺の歴史

歴史

1207年、浄土宗の祖、法然上人は75歳にして京の都から四国に配流となりました。小松庄(現まんのう町)生福寺に籠居し念仏を説かれること10カ月間、ここに法然上人の足跡が四国さぬきにとどめられることとなったのです。
時は移り江戸時代のはじめ、初代高松藩主松平賴重公は、法然上人の徳を慕って上人ゆかりの生福寺を高松に移し、藩主家菩提寺を開きます。名付けて仏生山来迎院法然寺。それはきわめて特色のある伽藍配置で、極楽浄土をこの世に現す寺として、また庶民に開かれた寺として、さぬきの人々の信仰をおおいに集めて今日にいたっています。

松平賴重公

法然寺の中興開基、松平賴重公は1642年、弱冠21歳にして高松12万石の藩主となります。ここに高松松平家藩祖が誕生します。以後、明治維新を迎えるまでの200年以上にわたり松平家歴代藩主が高松を治め、法然寺を藩主の菩提寺としてきました。
そもそも賴重公は、水戸徳川の長子であり、徳川家康の孫にあたります。父徳川賴房は御三家の一つ、水戸徳川家の始祖。しかし兄の尾張と紀伊、いずれにもまだ男子の誕生がなかったため、賴重公は家臣に預けられ、弟の光圀が水戸二代となります。
賴重公は幼い頃より京都の公家や寺で学問教養を身につけたのち、やがて将軍家光に謁見。こうして若き殿様の誕生となったのです。
一方、弟の水戸光圀(黄門様)は、兄のことを心苦しく思い、兄賴重の子息を水戸三代とし、また賴重公は光圀の長子を高松二代藩主に。こうして水戸徳川・高松松平両家の交互に養子とする慣例が始まったのでした。
高松藩主となった賴重公は、新しい藩政に意欲的に挑みます。産業振興のために、当時の文化の中心である京都からさまざまな職人を招いて最新技術を積極的に移入。また学問や文化にも意を用い、後水尾上皇、東福門院(賴重公のいとこ)とは和歌などを通しての交流が続きました。

藩祖の夢

法然寺の建立が始まったのは1668年。3年後の落成時に賴重公は隠居し、源英、龍雲軒と号します。法然寺の中興開山には江戸伝通院隠退の眞誉相閑上人を迎え、法然上人の遺跡復興と藩主の寺としての寺格位置づけに意欲を示しています。
なかでも特筆すべきは「仏生山法然寺条目」三十八カ条を定めたこと。藩主家墓所である般若台以外であれば、身分を問わず希望する者は墓をつくることができるとし、仏生山は頂上が藩主家、その下に領民の墓が一山を覆うよう意図されています。
さらに驚くべきは、浄土世界を具現化したこの寺の伽藍配置の特殊性です。寺の総門をくぐれば、領民は誰もが、極楽浄土への道を体感できるのです。そして三仏堂内には、涅槃図ならぬ等身大立体の涅槃像群。これらはひとえに藩祖・賴重公の類まれなる創造精神の発露といえましょう。
そして年中行事を核として広く庶民の参拝を奨励し、寺宝を公開するなどの条目も含めた寺運営は、その先見性に驚かされます。かくして法然寺は、南海さぬきの檀林として名実ともに備わり、中本山の地位を得たのです。
晩年は信仰生活に加え、茶の湯、和歌など広い教養に裏付けられた日々を送った賴重公は1695年4月12日、74歳の生涯を終えました。来迎堂において葬儀が行われ、仏生山頂上、般若台の中央に葬られました。

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